韓国書籍紹介など

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『82年生まれ、キム・ジヨン』を「政治的正しさ」から解くために――オ・ヘジンの議論より

『82年生まれ、キム・ジヨン』は韓国でもベストセラーになり、当たり前ですが、文芸誌上で議論が紛糾し、その中には「あれは小説になっていない」という風なありがちで別に参照しなくてもいいようなもの以外に、きちんと検討すべきものも多数提出されました。そのうち、オ・ヘジンの議論は、『キム・ジヨン』を「政治的正しさ」として語るやり方を解くための観点を模索し、いかに『キム・ジヨン』を批判的読解の対象にしうるのかをめぐる問いの立て方を再検討するさいに役立つと思います。日本語でも「ヨイショ」する記事を越えるものをどんどん出していくために使える議論ではないかと思います。

「「政治的正しさ」という嫌疑を強く受けている『82年生まれ、キム・ジヨン』をはじめとする、最近のいかなる「フェミニズム小説」も、多元性自体を物神化するやり方のナラティブを駆使しなかった。むしろ最近の諸「フェミニズム小説」の本当の問題は「多元性」の削除、つまりすべての小説が具現するフェミニズム政治学が「異性愛者‐既婚‐非障害‐中産層‐非トランス女性」の市民権を確保しようという目的に収斂されているという点を指摘せねばならない。

 強調すれば、『82年生まれ、キム・ジヨン』の「図式性」は「男性と女性を絶対的関係として描いた」ところにあるのではない。「図式性」は「合理的男性」を聴者と設定し、自らを「無垢で平均的な女性」であると主張する女性人物「キム・ジヨン」が試みる「理想的な」未来が、既存の異性愛中心的性体系を相対化することとは無関係であるという点、そこには「男性と女性」だけで構成されたものとして認識されている性的秩序が捉えることのできない多元的主体とその存在方式に対する想像が欠落しているという点にある。すなわち『82年生まれ、キム・ジヨン』の問題性は、すでに教条化されている「美学性」概念を基準に裁断された「美学的欠如」や「政治的正しさ」ではなく、現実の性的秩序を再組織するための急進化した政治的想像力の欠如、つまり「政治的鈍さ」に求めねばならない(もちろん、この政治的「鈍さ」や「怠慢さ」すらも、この本を媒介にジェンダーセクシュアリティの問題を社会変革の重大要素と認識することになった若い読者たちの躍動によって、いくらでも「急進的なもの」へと変容・受容されうる)。

 さらに言おう。『82年生まれ、キム・ジヨン』などが「政治的正しさ」に捕われたと批判されたが、じっさいフェミニズム政治学から見れば「純真で無垢な被害者」という典型(stereotype)を体化している「キム・ジヨン」という人物は、決して「政治的に正しくない」。文学研究者のホ・ユンは『82年生まれ、キム・ジヨン』が「犠牲的女性とその挫折というロマン的構図を抜け出しえていない」という点を指摘し、「これほど「かしこまった」ナラティブが政治的に正しいテクストと評価されるならば、むしろ文学が想像する政治的正しさがなんであるのかを問い直さねばならない」と主張する。「女性作家が女性の経験する生の脆弱性を再現することが政治的正しさ」であるならば、「暴力の被害者である女性を女神化したりスケープゴート」として描く最も「典型」的テクストが、すなわち最も「政治的に正しい」テクストになってしまうというナンセンスが発生するというのだ。〔この段落末尾に脚注23番。内容は「ホ・ユン「ロマンスではなくフェミニズムを!――「キム・ジヨン」現象と読む読者の欲望」『文学と社会』(ハイフンの方)、一二二号、二〇一八年夏号」〕

 まったくそうなのだが、もし『82年生まれ、キム・ジヨン』がフェミニズム政治学に定礎された「政治的正しさ」に立脚した人物を描こうとしたならば、「キム・ジヨン」は互いに異なる世代の女性たちが体験する苦痛を一身に体現可能なものへと同質化して、「失神」や「憑依」のような非理性的なやり方でのみ自分の欲望を表出できる女性であってはならない。「キム・ジヨン」は論理的で現実的な理性の言語で「合理的男性」をはじめとする実在する聴者たちを説得し、かれらと協商し、女性人権伸長および女性嫌悪文化根絶のために政治的・社会的・経済的・文化的認識と制度の更新のために闘う女性として描写されねばならなかっただろう。女性人物を無垢な被害者やスケープゴートなどへと典型化・ジェンダー化した『82年生まれ、キム・ジヨン』は、明らかにフェミニズム政治学に立脚して批評的に突破すべき一事例であることに間違いないが、それが「政治的正しさ」「アイデンティティの政治」という概念を物神化したり機械的に適用するやり方で達成できるはずはないこともまた明白だ。」(オ・ヘジン『至極文学的な趣向』五月の春、2019、195-7頁)