韓国書籍紹介など

読書ノートなど。翻訳もこつこつ出版していきたい。

金賢京『人、場所、歓待』(青土社、2020)は、諸論点で重要な指摘をしているが、そのうちの一つとして、以下の引用のようにネオリベラリズムと家父長制の関連様相を浮き彫りにしている点がある。この点はドラマ『スカイキャッスル』などを分析するさいにもぴったりである。わたしはこの本を訳している時にちょうど『梨泰院クラス』を見ていたのだが、『人、場所、歓待』に出てくる分析がほぼそのまま『梨泰院クラス』に出てきて驚いた記憶がある。『梨泰院クラス』をはじめとする韓国ドラマを理論的に分析するさいにも『人、場所、歓待』は使える本だと考える。

 

 「一言でいって家父長制は理念形としての現代社会と原理的に対立する。現代社会はすべての構成員が人として現れる社会であり、地位や役割、または利害関係を越えて人として互いに対することができる社会だ。換言すれば、現代社会では皆が皆に対して友情の可能性を開いておく。家父長制はこの理念形の対立物を構成するが、まず戸主=男性にのみ完全な人の地位を享受させて残りの構成員はかれの所有物と似たような状況にあるという点で、そして人に対する関心ではなく物に対する関心が家族関係を支配するという点でそうなのだ。家父長制において女性と子供たちに与えられる成員権の不完全さは友情の制約につながる。友情は男性的な美徳であり、主に男性主体の人格的成熟というテーマと結びつく。
 デュルケームやベッカリーアのような現代性modernityの支持者たちは家父長制の解体が歴史的必然だと信じた。デュルケームの進化論的図式を参照し(かれの説明だけに依ることなく)この過程を描けば次のようになる。伝統的家族の土台は財産(土地、家業など)だ。家族は一つの経済的単位として、この財産に付いて暮らし、またこの財産をめぐって争いもする。財産を統制する人は残りの構成員たちを統制できる。現代家族はこれと異なり愛情を結束の基礎にする。これは産業化が多くの職場をつくりだし、子どもたちに親の財産を相続せずとも自分の才能と努力で食っていける機会を与えるからだ。公教育制度の確立と能力主義meritocracyの拡散は、とりわけ貧しい家の子どもたちに階層上昇の通路を開くが、これはかれらが親の知りえない世界へ入って親とは異なるやり方で生きていくことを意味する。青少年期の生の内容が学校中心で占められ、学校が子どもたちを大人の世界に導く決定的な役割を担いつつ、親は早くから子どもを独立した個体として見なすことになる。他方で女性は男性と同等に教育をうけて職を持ち、家父長的家族の中に固定されていた自分の位置、永遠なる未成年の位置から抜け出す。家族構成員たちがそれぞれ自律性を得るにしたがい家族関係は水平的なものになり、家族は利害関係から離れて純粋な愛情をやりとりできるようになる。
 しかし韓国社会が(デュルケームが家父長制の終末と連関させた)高度の産業化と学力化、そして身分秩序の解体を経ているあいだ、家族は右記の図式とは全く異なる姿に進化した。デュルケームの予見とは異なり、能力主義社会の到来は相続制度の消滅をもたらさなかった。相続方法ないしは戦略を変えただけだ。親は財産を直接相続させる代わりに、子どもの身体にそれを投資し、その身体に相続させることを決心した。そうして子どもたちは相続者であると同時に投資対象、つまり財産自体になった。見かけ上、多くの点で家父長制と離れているように見えるこの新しい家族の中で、財産の管理――つまり子どもたちの身体と時間割の管理――は今なお構成員たちの関心を支配する。相続が特定の時点ではなく養育機関全体にわたり続くことになるがゆえに、家族は慢性的な葛藤状態に置かれる。親の相続プロジェクトに同意するが物扱いされることを望まない子どもたち、財産管理人としての自分の役割を認めてもらいたい母親、家長でありながらもこのプロジェクトから疎外されていると感じる父親が葛藤の三大主役だ。毎年増え続ける学校と家から去る青少年の数字は家族の危機を知らせる多様な症候とともに、このプロジェクトがいかに危険で成功しにくいかを示している。
 韓国家族は構成員たちのあいだの紐帯が物に基づくがゆえに、経済危機にかなり脆弱だ。家長の失職は直ちに家庭不和、暴力、離婚、児童遺棄に繋がる。お金を稼いでこれなくなったら父親ではないと人々が述べ、妻が述べ、なによりかれ自身がそう考えるがゆえに、職を失った父たちはみすぼらしくなり、それと同じくらい乱暴にもなる。父親だけではない。家族全体が同じ論理に縛られている。ご飯をつくってやれなければ母親じゃない、勉強をできなければ子どもじゃない、老いたら死ぬべきだ……。あたかも自分の有用性を立証できなければ家族の一員になれないというように(有用性は物の属性だ)。
 韓国家族はなぜ「人に土台を置いた家族」へ移行できないのか? この問いに答えようとすれば友情の条件に対する議論に戻らねばならない。人に土台を置く家族、あるいは関係それ自体が重要な家族――「関係的家族」 ――の構造は友情の構造と似ている。関係のなかの諸個人が互いを道具化せずに人として対することができるのは経済的な関心を関係の外へ押し出したからだ。経済的な関心が真ん中に置かれるやいなや、関係は複雑になり不安定になる。心がお金に換算され、お金が心に代わり、ともしていた時間全体が投資、期待、利益、損害、清算のような経済用語で記述され始める。しかし経済的な弱者たちが頼れる最後の砦が家族ならば、経済的関心を家族の外へ押し出すことがいかにして可能なのか? 資本主義的産業化は無給家族従事者や専業主婦のように家族を媒介に経済に間接的に接続している諸個人を労働市場に引きずり出す傾向がある。非契約関係から契約関係へ、または贈り物経済の領域から貨幣経済の領域へのこのような移動は、諸個人を人格的従属の危険から抜け出させ、労働の価値を認められるための果てない闘争から解放させる。しかし資本主義の発展が家族の経済的機能を完全に剥奪するのではない。むしろ資本主義経済の中で家族は労働力再生産の拠点として、そして失業の衝撃を吸収し、経済拡張に備えて予備人力を貯蔵する場所として特別な重要性を持つことになる。「家父長制を補完する国家」が時代錯誤的だと非難されつつも、資本主義と立派に調和をなす理由がここにある。家父長的家族から関係的家族への移行は産業化が伴う自動的な変化ではない。二つの形態の家族は同時性の中にあり、資本主義は後者をつくりだすのと同じほど前者を必要とする。
 結局家族を友情の原理によって再組織しようとする現代の企画は友情がぶつかるものと同じ障害物にぶつかる。他人との人格的関係に頼って物質的な必要を解決する人々の存在がそれだ。かれらが人として別の人々と自由で平等で打算的ではない関係を結ぶことはいかにして可能か?  人の地位を法的で儀礼的側面でのみ――つまり形式的観点においてのみ――規定し、人らしく生きるさいに必要な物質的資源の問題を無視するならば、わたしたちはこの質問に答えられない。友情の条件に対する議論はこのようにしてわたしたちを贈与と歓待の関係に対する考察へ導く。」(日本語版、184~187頁)