韓国書籍紹介など

読書ノートなど。翻訳もこつこつ出版していきたい。

【日本語訳】高秉権『民主主義とは何か』(グリンビー出版、2011)の紹介文

原文は、以下のグリンビー出版社のホームページ参照
http://www.greenbee.co.kr/book/book_info.php?article_id=235&series=1192



高秉権『民主主義とは何か』(グリンビー出版、2011)


紹介文


「とは何か」を問う書籍が台風のように出版界をゆるがせている。サンデルの『正義とは何か』旋風が静まりきらぬうちに、柳時敏の『国家とは何か』旋風が吹き続いている。そしてここに、高秉権の『民主主義とは何か』旋風を追加しなければならないだろう。しかし民主主義の風は、一時的な風ではなく、反復して再帰する風だ。「デモクラシー」は「デモス(民衆)の力」を指す言葉であり、人間の生は、歴史が継続する限り、決して干上がるわけがないからだ。民主主義は、とある完成された形態や制度、システムではなく、正義、福祉、国家を貫通しながら、つねに時代と大衆とともにみずから更新していく。高秉権の「民主主義論」を読めば、サンデルの「正義論」や柳時敏の「国家論」が、韓国の政治・思想地図にいかなる亀裂をどの程度作ったのか、そしてそれらの終りと限界を知ることになる。





本文中より



「万一、数的に「多数」ですべてのことを決定する政治を私たちが民主主義だと呼ぶなら、民主主義理念とはせいぜい、ある社会を支配する常識と通念以上ではないだろう。万一、ある論者(崔章集)の言葉のように民主主義の革新が「諸政党が得票のために投票者多数の関心や選好に反応する努力」にあるのなら、少数者たちはおそらくそのような民主主義によって暴力的排除を経験するだろう。」(41頁)


「私たちが民主主義と信じている国民主権体制は、国民という名前の絶対権力が、限りなく意気地ない個別人民を扱う(養育であれ統制であれ)体制だといえる。みんな(everybody)が主権者という点で、おそらく個別的には主権者ではない(nobody)体制。王のふたつの身体(主権的身体と自然的身体)のように人民もふたつの身体を持った。主権者としての人民は、まさに神聖で全能であるが、個別的にはまさに無気力で無能だ。全能であることと無気力であることがともに集っているところ、そこがみずからを民主主義だと自負する国民主権体制だ。」(68頁)


直接民主主義に対した漠然とした想像は、多くの場合、それの非現実性に基づき、代議制擁護論の餌になりやすい。……直接民主主義は、いかなる技術的条件(たとえば電子通信技術の発展)が準備されたとしても可能ではない。「代表なき国民主権」を夢見ることは「商品を願いながら貨幣は願わない」ことと同じであって、「交換を無くせばカトリックがなくなると信じること」と同じである。代議制民主主義は主権と国民を批判せずには克服できないだろう。」(46頁、76頁)


「大人になっても子どものように行動するとき、私たちは退行的だと言う。おそらく韓国の民主主義に対して「もう年もとったし大人らしく行動しろ」というような訓戒をいう人たちの考えも同じだろう。しかし、この「大人の視覚」はときには「公安の視覚」でもある。新しく作られた体制を維持し官吏する公安の視覚が、「成熟した民主主義」の名前に投影されうる。かつて民主化運動をしたということ、甚だしきはそのときの理念と習俗をいまだに大切にしていること、それによってある人が永遠な民主主義者になるということはない。マルクスの表現を借りれば「子どもの真実」を生産できないとき、再び始まる者になれないとき、その民主主義は老い始める。」(97頁)


「軽く考えてみるに、大衆の声は直接的であるほど明瞭で、間接的であるほど不明瞭であるようだが、事実は正反対だ。代表者の言語に媒介された言葉は明瞭であるが、大衆の直接的声は強烈であっても明瞭ではない。特定の代表体制に属していないとき、大衆の声は騒音のように聞こえ、大衆の顔は匿名的になる。」(105頁)


「これまでずっと、少なくともプラトン以来の西欧の思想は、政治家を「よい羊飼い」のイメージで描いてきた。政治学は「よい羊飼い」を、選び出す技術で縮小させてきた。民主主義に対する近代的理解も大きな違いはない。民主主義とは人民が自分の生を管理し育成してくれるよい代表を探すことであるかのようにみなされてきた。しかし民主主義はよい羊飼いを選ぶことではなく、大衆が羊の群れから転落しないことだろう。生を培う能力がないとき、大衆は生を支配する権力に自身を依託するしかなくなる。大衆は無能とおびえの中で、この代表、あの代表を乗り換えることだけを反復する。そうなれば、民主主義の運命は結局エリートの力に依存するようになり、「デモスの力」ではない「エリートの力」が民主主義の力量を表わすようになるだろう。」(109頁)