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生死を賭ける、存在を賭ける――李珍景『金時鐘、ずれの存在論』の議論紹介

李珍景が『金時鐘、ずれの存在論』(2019)で議論している「生死」を賭けることと「存在」を賭けることの差異について引用紹介です。ちなみに「死への先駆」はハイデガー存在と時間』に出てくる言葉です。

 

 「生の真実性とは「存在を賭けること」であると述べたが、「存在を賭ける」とはいったいなにか? しばしば言われるように命を賭けることか? そうかもしれない。しかし、命を賭ける術を知らない者や「死へと先駆」できない者たちを生の真実性から排除し、心を打つが限りなく狭苦しい英雄的観念によって存在と生を制限してはならない。じっさい「多くのことを考ると」命を賭けにくくなる。論理的に同値である命題を逆からいえば、命を賭ける者たちは、あまり考えていない。ただひとつだけを考える。であるならば「簡単に」命を賭ける者たちは、そのひとつすらも「簡単に」考えるのではないか? それはわからない。内心が分からないので断言できない。ただ明らかなのは、簡単に命を賭けろと要求する者たちに対しては、その者たちが本当に多くのことを考えてそのような要求をしているのか、生を深く考えてそのようなことを言っているのかを疑うべきだという事実だ。多くのことを考えるならば、決して簡単には命を賭けろとは言えない。
 命を賭けることも、命を賭けろと言うことも、決して簡単なことではないだろう。しかし戦争時に、どの国家であれ「命を賭けろ」とかくも容易く言うのを見れば、命を賭けろということは、そう難しくないようだ。少なくともそのような言葉を全く困難なしに述べる者たちがかなり多いことは明らかだ。命を賭けることはだれにとっても簡単なことではないだろうが、国家の旗の下に喜んで死んでいく兵士たちが少なくないことを見れば、これもまたしばしば考えられるほど難しいことではないのかもしれない。
 存在を賭けるということは、生を賭けることだ。命を賭けるということは生命を賭けることだが、生を賭けるのではなく死を賭けることだ。死の瞬間へと先駆するとき、背後に貼りつく恐怖を耐えることだ。その恐ろしい瞬間を、ふたつの目をじっとつむって耐えぬくことだ。ある人は生きてきた生全体を賭けると述べたが、それは賭けたくても賭けることができない。すでに過ぎさってしまったものだからだ。にもかかわらず命を賭けることがすべてのものを賭けることであるかのように重々しく近づいてくるのは、そのとき耐えねばならない恐ろしさが、かくも大きいからであろう。また先駆していった者には、その待機の時間がこの上なく長く感じられるからであろう。エピクロスの言うとおりに、死の苦痛とは生きる者は感知できず、死んでからは感知する能力がないので、だれも経験できないものだ。ただ先駆する者としては、だれも知りえない死以降の時間に対する恐怖と不安を死の時間まで耐えねばならない。それがかくも重いのだ。恐ろしいのだ。
 存在を賭けることは死ではなく生を賭けることだ。生自体を賭けることだ。生を賭けることは生きている時間の持続を耐えぬくことであり、その持続する時間のあいだ近づいてくるあらゆる事態を耐えぬくことだ。生を否定しようとする多くの反動的(reactive)な力に立ちむかい、生を押しひろげることだ。生きているがゆえに決して避けえない、あらゆる感覚を通して感知するしかない諸瞬間の重みを踏みしめて繰り返し立ちあがることだ。それゆえ一瞬の重さへ還元できる死の瞬間を耐えぬくことではなく、生きている限り持続するしかないあらゆる瞬間の持続を、その重さの持続を耐えることだ。その重さの摩擦を越えて、そしてまた越えて生を押しひろげることだ。」(李珍景『金時鐘、ずれの存在論』図書出版b、2019、第二章)