韓国書籍紹介など

読書ノートなど。翻訳もこつこつ出版していきたい。

「フェミニズムは女性を被害者としてのみ捉えるという、まさにその考え方と闘ってきた」――クォンキム・ヒョンヨンのエッセイからの引用

日本語翻訳もいくつかあるキム・ウンシルが編んだ『コロナ時代のフェミニズム』(ヒューマニスト、2020)は、単著を持つ論者たちが、それぞれの議論をまとめた短いエッセイが並んでいる本であり、すぐ読める。もちろんそれぞれ単著を読むにこしたことはないが、韓国フェミニズムの見取り図を(根本的にではなく)ざっくりと見るためには役立つ本である。以下に引用するクォンキム・ヒョンヨンは『ハンギョレ』や『京郷新聞』でもばりばり書いているし、ベルフックスの『フェミニズムはみんなのもの』の韓国語版解題なども書いているので、韓国フェミニズム書籍に触れたことのある方は知っていると思う。単著としてはエッセイ集の『二度とそれ以前には戻らないだろう』(ヒューマニスト、2019)と論文集の『常にそうであったように道を探し出すだろう』(ヒューマニスト、2020)がある。また、責任編集した重要な論文集のうち、とりわけ根本的なものとして『トランス叢書3、被害と加害のフェミニズム』(教養人、2018)がある。トランス叢書については、別の媒体で簡単に紹介したことがある。以下の引用は、この議論を簡略化してエッセイ化したものといえるだろう。

 

 「男性であるがゆえにいつでも加害者でありうるという言葉は男性一般を攻撃する言葉ではなく、男性であるがゆえに仕方ないという弁明として、よりしばしば用いられる。
 同様に女性をすべて潜在的被害者であると考えるならば、潜在的に危険になりうる(主に外部的で異質的な)ものから保護しようという論理がフェミニズムの言語のように使用され、女性たちが互いに取り締まりをして被害者にならないことを奨励し、危険な女性と資格を備え持っていない女性を非難する文化が創出されもする。危険から安全である権利を主張する「潜在的」被害者主義は、危険地帯で生きていくしかなかったり、または時には危険を自ら甘受することをもって規範という名で行われる暴力に抵抗しようとする女性の生を他者化したり非可視化する。これはフェミニストであればその誰もが望まないであろう流れだろう。
 もう一度強調するが、フェミニズムは女性を被害者としてのみ捉えるという、まさにその考え方と闘ってきた。フェミニズムは被害者を同等な社会構成員として尊重しようとするものであって、被害者の言葉が無条件的に正しいとは言わない。「あなたが悪いのではない」という言葉は被害者を不当に非難することを塞ぐために必要なのであって、女性がいかなることも真に選択できないだとか矛盾と混乱を経験しつつ自分の生を作り出していく過程の中の主体だという点を否認しようとする言葉ではない。
 被害者を尊重するということは被害者を真空状態において保護するということではない。生きている人間として被害を経験し、時にはその経験に関する解釈を変化させながら成長していく女性を支持するという意味だ。ある経験は被害でもありえ、被害でありえないかもしれない、グレーゾーンに存在する。その経験はみな被害と加害の二分法で分類すべきでもなく、現実的に可能でもない。
 誰からも傷つけられず、誰へも迷惑をかけない無害な存在として生きることを目標にするなら、世の中はすべて危険なものでのみ満たされているという恐怖のみが増幅しつづける。恐怖が満ちた世界であらゆる潜在性を被害または加害へと置換してしまうのではなく、傷つけられてもそれで人生が終わりではなく、弱くて不足しておりちょっと異常で心地悪いとしても、それがまさに人間としての女性が生きるいくつかの姿のうちの一つだという事実を、より多くの人が知ることになること、これが「被害者フェミニズム」を越える次の段階になるのではないか。」(クォンキム・ヒョンヨン「女性は潜在的被害者なのか」『コロナ時代のフェミニズム』42-44頁)