韓国書籍紹介など

読書ノートなど。翻訳もこつこつ出版していきたい。

正しい言葉が登場する時――スユノモが解体した時についての高秉權の議論から

 『哲学者と下女』が日本語に紹介されている韓国の哲学者である高秉權(コ・ビョングォン)のエッセイ集『黙黙』に、2009年にスユノモが解体したさいに「正しい言葉」がいかに用いられたかが論じられていて刺激的です。このような状況は、スユノモに限らず多々あることだと思います。

 なお、高秉權の書籍としては、『貨幣、魔法の四重奏』(2005)、『追放と脱走』(2009)、『民主主義とは何か』(2011)、『占拠、新しいガバメント』(2012)、『哲学者と下女』(2014、日本語訳はインパクト出版会)、『生きていく』(2014)、『黙黙』(2018)の他、共著も多数あります。ニーチェ論としては『ニーチェ、千の目、千の道』(2001)、『アンダーグラウンドニーチェ』(2014、曙光論)『ダイナマイト・ニーチェ』(2017、善悪の彼岸論)があり、さいきんは『資本論』第一巻の講義録が全12巻(!)で完結させています。また、マルクスエピクロスデモクリトスの自然哲学の差異』の韓国語訳者でもあります(2001)。

以下は題名に記した議論の部分引用紹介です。

 

 「スユノモが壊れた時の記憶だ。これは「言葉の限界」でもあるが「限界へと追いやられた言葉」についてのことでもある。10年続いてきた研究共同体が壊れる時、荒い言葉が行き来した。しかし言葉の戦争が始まる前に、いつからか「正しい言葉」の専制的支配が持続していた。いつからだろうか、誤った言葉、中身のない言葉、意味のない言葉、おかしな言葉が辺境へと追いやられたり、消えたりした。全体の集まりでしゃべる人々の数は急速に減った。わたしを含む少数の人々だけが大きく喋り、長く喋った。常に「正しい言葉」、「然るべき言葉」だけをしゃべる人たちのことだ。
 正しい言葉がかくも多く溢れかえったにもかかわらず、共同体が大きな危険に陥っていることを、みなが感じていた。しかし危険を感知すればするほど、正しい言葉がさらに多くなった。言葉はしだいに法に似たものになった。そして正しさ(right)と権利(right)を問いただしたり言い争ったりする言葉が横行すればするほど、わたしたちの共同体は国家に似ていった。
 政治哲学者たちが指摘するように、法とは主権のことだ。共同体が国家に似ていくこととともに「正しい言葉」は「律法」に似ていく。わたしはここで「正しい言葉」の限界を明らかに目にした。だからわたしは抵抗の言語として叫ばれる時すら「正しい言葉」、「権利の言葉」をそれほど信頼しない。
 〔中略〕主権の言語としての正しい言葉が支配すれば身体は凍りつく。中身のない言葉、ばかげた言葉、誤った言葉の重大な機能がここにある。その言葉は雰囲気を解かし、正しい言葉がもたらしうる否定的効果(硬直性や退屈さ)を制御する。誰かの中身のない一言は、別の誰かが言葉を語れるように、空気を柔らかくする。誰かのとんでもない誤った言葉は、誰かに対し言葉を切り出す勇気を与える。たとえ仲間に対する命令になりうるような「正しい言葉」が友情に満ちた助言になりうるのも、このような言葉のおかげだ。さらにいえば、このような言葉は、討論を通して一つの結論が導出される時にも、その結論が整理されすぎないように、欠点を残したり、少なくとも落書きくらいはしておく。
 正しい言葉を制御したり助けたりするこのようなものが作動しない時、それゆえ正しい言葉が単に正しい言葉に留まる時、暴力が登場しうる。暴力は正しい言葉を弾圧する時も動員されるが、わたしが体験した暴力的状況は、おおよその場合正しい言葉を語る側で作り出された。喋っても耳を貸さない人が生じ、言葉がいかなる変化も惹起できないと判断する時、正しい言葉を語る人々は強制を暴力を動員してでも、自分の言葉に力を込める。言葉自体に力がないから、言葉にいかなる魅力もないから、強制によって言葉を貫徹させるのだ。処罰の威嚇、とりわけ追放の威嚇が正しい言葉のそばに控えているなら、暴力は後戻りできないほど進行していると言える。」
コ・ビョングォン『黙黙』トルペゲ、2018、38‐40頁。