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【日本語訳】済州島軍事基地化政策の歴史と反基地運動の地平

カンジョン村をめぐる記事の中で、済州島の歴史的文脈からはじまり東アジア全体の軍事基地に抵抗するための短い論文を訳載する。





原文:「スユノモウィークリー」83号、2011年9月20日
韓国語原文(http://suyunomo.net/?p=8509


済州島軍事基地化政策の歴史と反基地運動の地平




チョン・ヨンシン(ソウル大学社会学科博士課程修了)




済州島から沖縄を考える!



済州島西南部のカンジョン村に海軍基地を設置しようとする国防部の計画によって「陸地警察」〔陸地とは済州島から大陸に属している部分の韓国を呼ぶ言葉〕が投入され、姜ドンギュン村会長をはじめとする活動家たちが拘束され、国防部はグリンビ岩を壊す工事に入った。さらに、済州島と国防部が協約書をおたがい違う名称で締結したとまでいう。カンジョン村の海軍基地建設事業は大きな峠をむかえている。保守言論は「海軍基地の敷地が左派団体の解放区」になっているとして工事強行を求めているし、平和運動団体は済州海軍基地の建設が韓中関係を悪化させ「未来の不確実な危険」を「確実な危険」に確定させてしまうものであると憂慮している。


さいきん、ウィキリークスの暴露によって明らかになったように、軍事・外交・通商の分野での高位官僚たちの裏取引と密約が横行して、大統領をだましていたことまで起こった。この過程で官僚たちみずからが、重要な情報を提供するなどの「情報スパイ」を仕事としていたにも関わらず、その過程と内容は「国家機密」という名前で包まれて隠されるのはいつものことだ。したがって、いま起こっている事実に対する追跡と肩を並べるほど必要だと感じるのは、歴史的・構造的な脈絡で事態を見ることだ。この文章では、現実からいったん離れ、事態をより大きな空間のなかに位置づけ、より長い歴史的脈絡から検討する。東アジアの戦後という脈絡で、とりわけ沖縄との関連性の中で、済州島の軍事基地化の試みの歴史を再検討する。




4回の試み:一度目の成功、二度の失敗、そして最後の試み?


長くない韓国の近現代史済州島は4回の軍事基地化の圧力に直面した。1940年代に済州島日本帝国主義によって軍事基地化された。いまではよく知られた話で多くの研究成果もでているが(シン・ヂュべ、2003、ツカサキ・マサユキ、2004、ファン・ソッキュ、2006、イ・ビョンレ、2007)、簡単にこの過程を要約してみれば次のようになる。1942年6月、ミッドウェー海戦で惨敗して以降、次第に太平洋で主導権を失っていく日本軍は1944年に数度の決定的な敗北を経験し、以降は日本の南方にあるいくつかの島を基地化し、本土決戦に備えようとした。44年3月には「10号作戦準備大綱」を発表し、まず台湾と沖縄を航空基地化した。44年7月に作成した「捷号作戦」と45年1月に作成した「天号作戦」もまた、南方の島を基地化し、海上航空作戦を繰り広げると同時に本土決戦に備えるという構成だった。45年2月に硫黄島が陥落するや、日本軍は本土決戦計画である「決号作戦」を企画するが、このうち「決7号作戦」は日本領土以外の地域で唯一済州島を軍事基地化しようとするものだった。


済州島ではすでに1931年3月にモスルポ平野(アルトゥル)に航空基地が建設されはじめ、日中戦争とともに基地機能がより強化された。1945年4月15日には第58軍司令部が新設され、日本本土の部隊と満洲関東軍など終戦直前までに7万5千名の兵力が済州島に結集し、済州島の島全体が軍事基地へ変転した。上陸予想地点であった西南部には様々な塹壕と洞窟陣地、飛行場が建設された。広島・長崎の原爆投下とソ連軍の対日参戦を契機に、日本が降伏するなかで、済州島は戦争の惨禍から抜け出たが、上陸部隊に打撃を与える「海岸決戦」と長期的な持久戦を繰り広げる「内陸決戦」を結合した「決号作戦」が進行していたら、いかなる結果を引き起こされるのかは沖縄戦の被害を通して間接的に確認できる。沖縄人たちが「鉄の暴風」として記憶する沖縄戦で、日本軍6万5908名、米軍1万2520名、沖縄で徴兵された軍人と軍属2万8228名、一般住民9万4千名が犠牲になった。狭い島の地域で住民の数倍に達する軍人たちが集結し繰り広げた戦争の結果は想像を許さないほどだ。日本の降伏によって日本軍が解体・撤収されたが、済州島のいたるところで当時の軍事基地化の痕跡が残っている。


米軍占領期(45−48年)を経て朝鮮戦争の過程にて、後方補給と軍事訓練地の役割を担当した済州島に、ふたたび軍事基地化の危機がやってきたことは、思いがけないことに、沖縄の日本返還交渉が進行していた1960年代の末だった。すでに1965年8月、日本の佐藤栄作首相は戦後日本の首相としてはじめて沖縄を訪問し「沖縄の祖国復帰が実現しない限り日本の戦後は終わらない」と言明し、復帰交渉は本格化した。沖縄が日本に復帰するという情報は、当時の韓国と台湾政府に大きな脅威を与えた。沖縄に駐屯していた米軍の相当数が撤収し、米軍基地の相当数が閉鎖されるものだと予測したためだ。


1968年6月18日、韓日両国間に、沖縄米軍基地にあるメイスBなどの核兵器を含んだ重要戦略基地とAMB(ミサイル邀撃網)レーダー網などの米軍施設を済州島へ移し、韓日両国と極東地域の防衛の任務をはたすことを骨子とする非公式的な議論が進行していたことが報道された。69年3月、国会の対政府質疑でも国会議員たちは駐韓米軍と沖縄にいる米軍基地撤収説に対する対応法案を集中的に追求した。3月15日にはチョン・イルグォン国務総理がUPIとの会見で、米軍が沖縄からやむを得ず撤収することになった場合、韓国領土を新しい米軍基地に提供する考えを明らかにし、その後も政府当局者は沖縄米軍基地の撤収に反対し、韓国が喜んで代替基地を提供するという意思を明らかにした。4月15日には崔ギュハ外務部長官が駐韓米国大使と日本大使に、沖縄返還で極東の安保の考慮が重要になるという覚書を伝達したという事実が報道された。すなわち、沖縄の米軍基地が韓国と台湾の安保にとって、極めて重要であり、不可避にその機能を縮小する場合、韓国に移転することを歓迎し、その対象地域は済州島だというのが当時の韓国政府の立場だった。


しかし米軍はこのような韓国政府の立場をそれほど実効性あるものとは見ていなかった。その主な理由としては沖縄の戦略的長点に替わるほどではないという点、済州島が中国大陸に近いためレーダー網が捕捉されるという点、基地としての立地条件と建設費用に難点が多い点、適切な港湾施設や基本的な水道および電力施設が不足しているし風も強いという点、などが挙げられた。沖縄返還交渉の結果、沖縄から核兵器は撤収するが重要基地はそのまま残ることになると、沖縄米軍基地の済州島誘致の動きは消えた。要するに済州島の軍事基地化の2つ目の動きは、日本へ復帰した後にも沖縄に米軍基地がそのまま維持されたという条件の下で中断されたのだ。


3番目の軍事基地化の試みは、冷戦が終わろうとしていた1980年代末に進行した。「ソンアク山闘争」と命名できる当時の事態の展開と住民の対応様相に関しては、すでに多くの研究が出ている(김수열, 1989; 조성윤, 1992a; 1992b; 2003; 조성윤․문형만, 2000a; 2000b; 2005)。南済州郡のデヂョン村モスルポ地域では朝鮮戦争の時期から軍事施設保護区域として指定されていた所が多く、この地域を借りて農業をしていた人たちも多かった。1987年11月の大統領選挙に出馬した盧泰愚候補は、この土地を保護区域から解除すると約束した。しかし国防部は選挙がおわった直後に軍事施設保護区域審議委員会を開いたが、かえってその周辺地域まで保護区域として指定してしまい、この事実は88年8月12日『済州新聞』によって知られることとなった。政府がソンアク山一帯の観光開発計画を中止し、既存の国公有地70万坪に周辺の土地をもっと含めて197万坪規模の軍事基地と飛行場を建設する計画だったのだ。


デヂョン地域の青年たちがつくった「デヂョン社会研究会」が先頭にたち、村の住民の説得をしはじめ、10月1日には「モスルポ軍飛行場設置決死反対デヂョン村共同対策委員会」が構成され、村の集落長たちと各地域組織の代表者たちがともに基地設置反対行動に立った。住民たちは「戦争なき失郷民にはなれない」や、「生存権を棄権にさらすいかなる軍事基地設置も拒否」すると明らかにし、「大統領選挙公約に反する」、そして、日本帝国時代と朝鮮戦争に至るまで、国家安保という次元で犠牲を強要されたにもかかわらず、またもや軍飛行場を設置するということは理にあわないとして強い反対意思を表明した。一方、87年民主化運動を通じて成長した島内の19個の宗教および民主団体は「ソンアク山軍事基地設置決死反対島民対策委員会」をつくり、「朝鮮半島の平和」、「駐韓米軍撤収」と「朝鮮半島非核化」、「南北韓平和協定締結」などを主張し、集会や平和大会を開催した。地域政治家と留学生組織まで立ち上がったこの反対運動の結果、政府は1990年3月、ソンアク山軍事基地設置計画を全面白紙化するという決定をくだし、国防部所有の軍事基地中の47万坪を住民に払い下げるとし(以降国防部は土地の払い下げをしなかった)、ソンアク山闘争は終了した。しかしこの地域に軍事基地を拡張しようとする軍部の計画はいまなお進行しており、このような試みは観光地開発を要求する地域住民の要求と絡まりながら今日まで複雑な様相で展開している。


そして最後に、カンジョン村で進行している現在の事態は直接的には3番目の軍事基地化の試みの延長線上にあるものとして見える。より長いスパンで見れば、大陸と海洋勢力が交差する辺境の島を軍事要塞にしようという(どこの国の軍隊であれ関係なく)軍事主義勢力の昔からの欲望を表現するものだといえる。4番目の事態の展開様相に関しては、多数の報道記事で代替することとするが、ひとつだけ付け加えておく。海軍と軍事基地誘致勢力は2007年4月にあったカンジョン村界の誘致決定、5月に金テファン前道知事のカンジョン村最優先地選定決定、2009年12月済州道議会のカンジョン海岸絶対保全地域変更議決、2010年11月済州道知事の海軍基地受け入れ立場発表などを土台にカンジョン村海軍基地建設が「もっとも民主的な順序」にしたがって寸効していると言った。しかし平沢で国防部は地域住民の強い反発にもかかわらず強権的に基地建設を強行したことがある。さらに現地世論をまず動かして村会や市長、市議会の誘致決定を導き出し、それを根拠にして基地建設を強要する方式は沖縄の辺野古地域に新基地を建設しようとする日本政府がすでに使った方式だった。住民の中の賛成派を支援し、地方選挙に中央政府が直接介入し議会を掌握して活用し、「民主主義の順序」という合理性をつくりだす。そしてこのすべての過程を開発資金支援を餌にして動かしてきたのだ。したがって軍事基地設置に対する反対の意味は、軍事・外交分野に限定されず、開発と環境、生の質の問題にまで連結する。このような順序的合理性の意図的な創出は民主主義進展の結果というよりも、むしろ形骸化のサインだ。住民たちが自己決定権を行使しほんとうに基地建設に反対すれば困るために、ただひたすらそのような事態が起こらないという条件の下でのみ、住民たちの意思が「尊重」されているためだ。



東アジアの戦後、沖縄、そして済州島



済州島を軍事基地へと作るための4回の試みが東アジア全体の変動期あるいは移行期に発生したという点は偶然だとは言えない。戦後東アジアの軍事・外交的秩序を東アジア(冷戦・分断)体制だとよぶなら、4回の契機はそれぞれ東アジア体制が大きく変動する時点に起こったことだ。


日本軍による最初の軍事基地化の試みは20世紀前半期を支配した帝国主義の植民地支配体制が連合軍とアジアの民衆たちの抵抗によって破局をむかえる時点に発生した。要するに済州島と沖縄の軍事基地化は沖縄戦、済州4,3抗争、台湾の2,28事件、朝鮮戦争など東アジアで繰り広げられた大規模暴力自体を予感することだった。この諸事件は、旧体制が冷戦体制へと転換していく巨視的な体制変動の過程でおたがいに競り合う力が衝突する過程であり、東アジアの隅で、その力が爆発した結果だった。この力は朝鮮戦争の休戦協定とともに一定の勢力均等状態に見えながら、安定化された。そのあいだに朝鮮民主主義人民共和国と中国、ソ連は相互間に「友好協力および相互援助条約」を結び、米国はフィリピン、台湾、韓国、日本と相互防衛条約あるいは安全保障条約を結んだ。


済州島軍事基地化の2番目の契機は米国のベトナム戦争敗北と経済力の衰退、日本の経済力の浮上を背景にしており、沖縄民衆の反基地闘争によって沖縄米軍基地の重石が危機に瀕し、浮き彫りにされた。沖縄の日本復帰が核兵器をはじめとする駐沖縄米軍の軍事力を弱化させることだとする判断は、ベトナム戦争戦況の悪化および1,21事件、プエブロ号事件ニクソンドクトリンなどと重なりながら朝鮮戦争に深刻な安保の不安を刺激したのだ。沖縄をなおも「基地の島」として残すという米日の密約と韓国政府の一方的な姿でおわった2つ目の契機は、進められていた米中接近(1969-1972)と日中修交(1972)のなかで東アジア体制の緊張が緩和することで帰結したが、韓国内ではむしろ米軍撤収に相応する軍事力を建設するために反共権威主義体制が強化される結果を生んだ。


4回目の契機はいわゆる民主化と脱冷戦の潮流の中で浮き彫りにされた。当時の民主化は韓国だけの現象ではなく権威主義体制の下にあった第三世界の潮流として把握する場合、とりわけフィリピンの民主化運動と反基地運動の攻勢によってフィリピン米軍基地の存在可否が不透明化したという脈絡が重要だ。当時の言論はフィリピンの反基地運動をしばしば取り上げており、1990―1991年には米軍基地移転に関連する記事が大幅に増加した。韓国の言論は日本の言論報道を引用し、米軍がフィリピンから撤収する場合、空軍はシンガポールやグァムに、海軍は日本の佐世保や韓国の南部港湾に配置する計画が具体化していると報道していて、米国では関連法案が通過したという報道もあった。したがって当時の反基地運動の主体は米軍基地の済州島移転可否に注目しており、これは似た時期に起こっていたソサ郡ヘミ村の反基地運動でも同様だった。民主化によって下からの抵抗と脱冷戦による国際情勢の混乱の中で基地化は中断され、韓国は中国、ソ連と修交することによって東アジア体制の緊張は一層緩和した。


最後に、4番目の契機の脈絡として筆者は、戦後に形成された東アジア体制が長期移行期に入ったという点を挙げたい。一方では90年代に展開された韓国と中国、ソ連の修交および協力の増加、南北間の関係改善、そして中国と台湾の接近は緊張緩和と平和体制の構築の展望を高めたが、他方では2001年からはじまった米国の対テロ戦争と米軍再編計画(2004)、核開発と体制安全保障をめぐる米朝関係の悪化、東アジア各国間の領土、歴史紛争の強化は東アジア体制の方向をカオス状態へと追い立てている。これにだんだんと軍事化の膨張要求に捕われた日本と韓国の対米同盟強化政策がかみ合って済州島の4番目の軍事基地化がこころみされているということだ。結局このすべての傾向は、戦後東アジア秩序を主導的に構築した「衰退する米国」と13億の人口の経済力をもとに世界強大国へと「浮上する中国」間の力の対決がつくったブラックホールの中に吸収されるだろう。このような脈絡で済州島の軍事基地化は米中をはじめとする東アジア国家間の相互協力と共同開発という「構造的対案」に対する明白な拒否の信号となる可能性が大きい。


韓国政府と軍部がいかなる名分を提示しようと、事態の展開方向は大して変わらないだろう。南シナ海でくりひろげられている領土紛争の例からわかるように、東アジアのいかなる領土紛争も結局は米中間の力の交差様相によって決定されるのであり済州島の海軍基地を米軍が使うことも避けられない。最近国会の予算決定委員会済州海軍基地事業調査小委員会に出席した国防部関係者はSOFA規定上、米軍がわが施設を活用しようとするなら韓国政府の承認が必要だと発言したが、これは明白な嘘だ。韓米相互防衛条約第4条により、米軍は朝鮮半島のどこにでも駐屯する権利を持っている。さらにSOFA第10条3項の規定によって米軍艦艇は韓国の港へ入るとき「通告」だけをすればよい。米軍の安全にかかわると判断される場合にはこの条項さえも免除される。1960年代末に米軍が済州島を拒否した「諸条件」を思い出す必要がある。沖縄基地の代替不可能性と基盤施設の不足。げんざい沖縄反基地運動の攻勢によって沖縄米軍基地の存在が脅されており、韓国には基盤施設が準備されている。韓国は拒否する権利がなく、中国の考え方は変わっておらず、警戒措置を受け入れることは韓国政府の存亡にかかわることであり、万一の事態には済州島は一時的な盾になるだろう。


東アジア冷戦分断体制の変動は、この体制に参与している各国家と市民社会の力と力量が衝突し連結した結果によって発生した。それぞれの大きな峠のたびに東アジアの変動は軍事基地化をめぐる動きがあった。沖縄がもっとも直接的な影響を受けたが、済州島もやはり同一の圧力が存在していたという点を確認できる。一番目の契機の脈絡がわれわれに東アジアで行われてきた一連の「暴力の連鎖」に対する関心を起こさせるものなら、2番目の契機の脈絡は戦後にも東アジアの軍事基地が独立的に存在していなかったという点を知らせてくれる。米軍基地を中心として、すべての軍事基地は幅広いネットワークを形成しており、それは今日も同様である。2番目と3番目の契機の脈絡は80年代以降、軍事基地のネットワークに並行し市民社会間のネットワークが形成される蓋然性と必要性をわからせてくれる。沖縄とフィリピンの反基地運動の構成はむしろ済州島に軍事基地化の圧力として作用したということだ。したがって軍事基地に反対する運動は軍事基地網全体の縮小を志向しなければならず、そのとき、地域主義に反対する市民社会間の連帯は避けられない前提条件になるだろう。