オ・ヘジン『至極文学的な趣向』から「当事者」と「嫌悪」についての議論
韓国書籍の引用紹介です。600頁近い論考集の大著ですが、日本で最近紹介されている韓国文学諸作品についての批判的議論もたくさんあり、さらには索引もあるので(ありがたい!)、2010年代以降の韓国文化・文学を批判的に考えるさいに繰り返し参照されるべき本の一冊です。この本の別の議論もいずれ紹介したいと思います。
「対象と主体のあいだの「距離の感覚」が、哀悼はもちろん嫌悪においてもかなり効果的なアリバイとして作動するということは、何を意味するか。これについて文化研究者のソン・ヒジョンは興味深い仮説を提出する。ソンによれば、セウォル号の惨事は「正確に「わたしの惨事」であった。誰にでも起こりうるという意味で「わたしの惨事」であっただけでなく、わたしたちみながセウォル号という人災の共謀者という意味」(「嫌悪と「目をそらす体系」を越えて」『人権の山』480号、2016年4月8日)においてそうなのだ。要するに、ひとびとがセウォル号の惨事について「疲労感」を感じたのは、しばしば言われるように「他人事に共感して悲しむことに疲れたからではなく、それがまさに「自分事」であるから」なのだ。しかしこのように「他人事」ではなく「自分事」だから目をそらすという、この逆説的な診断が事実ならば、わたしたちは依然として「当事者性」あるいは「近親性」が何らかの行為を遂行するさいに強力な認識の基準であるとともに主体化の条件として作動していることを知ることができる。つまりソン・ヒジョンが「目をそらす体系」の議論を通して看破した重要な事実は、対象と自分が連累した程度を絶えず測ることが、究極的には緻密な嫌悪の体制をつくることに服務するのだという点だ。
さらに対象とわたしの距離に対する計量は、嫌悪の体系をつくるさいにも作用するが、嫌悪の体系から自分の「連累‐していること」を「漂白」するさいにも有用に使われる。例えば「「セウォル号の練り物」〔死体を揶揄する言葉〕のようなヘイトスピーチを遂行する「彼ら」は「わたし」ではない」という認識、これはソン・ヒジョンの指摘通りに、二度の認識論的否定を経由する。「わたしは嫌悪勢力ではない」と「わたしは嫌悪勢力の嫌悪対象ではない」。つまり嫌悪を「他人事」として考える時、わたしたちは安全な位置から嫌悪を嫌悪することができる。そうすることをもって、あらゆる悪の震源地として「イルベ」〔嫌悪発言が集まる韓国サイト〕が簡単に指名されるであろうし、「イルベ」だけを一網打尽にすれば、わたしたちみなは平和になるという結論に至ることになる。
だが「わたしは嫌悪勢力ではない」という主体の安定的なファンタジーが挑戦を受けるならば、つまり「嫌悪の主体は外ならぬお前こそだ」という命題と対面することになればどんなことが起こるか。「お前もまた嫌悪に共謀することをもってこの嫌悪の体系を支えてきた」と非難されるならば?
驚くべきことに、この時作動する主体化方式もまた「距離を置くこと」の操縦術を経由する。言うまでもなく、わたしはいま二〇一六年五月一七日早朝に発生した「江南駅女性嫌悪殺人事件」について一部男性たちが示した自己弁明のうちの一つである「わたしを「潜在的加害者」扱いしないでくれ」というスローガンを思い浮かべて本稿を書いている。女性嫌悪に対する家父長的主体の無批判と無自覚、希薄なジェンダー感受性が現在まで女性嫌悪を支えてきた原因であると突きつけられるや、直ちに提出された男性たちの戦略は、かなり矛盾したものだった。その戦略は「女性嫌悪が蔓延したこの社会で女性はみな潜在的被害者だ」という被害者の言語を借りて、被害者を加害者であると包み隠して、むしろ被害者を嫌悪する論理を取っている。「嫌悪の体系に服務しているのはわたしではない」と、自分の無垢さを主張するために、被害者の言語を逆用する、この逆説。
もちろん、「わたしはあなたになることができない」、「あなたの苦痛はただあなただけが真に体験することができる」という命題は、苦痛の真正性に対する思慮深さとして理解されもする。つまり「わたしはあなたではない」という命題は、他のいかなるものにも還元されえない苦痛の個別性と特殊性に対する最小限の尊重として読むこともできる。しかしその反対の場合も可能だ。「わたしはあなたではない」という命題は直ちに「あなた」と苦痛を共にすることを拒否する自己防御と自己保存の修辞学としてもしばしば使用される。そしてこれは他人の苦痛を共にし、その責任を負うことを拒否するのだという政治的ジェスチャーとも相通じる。例えば「わたしは男だからよくわからないが」あるいは「わたしは男だからフェミニストになれない」のような発言。この発言が慎重に暗示するのは、事態を「わたしの問題」として認識することを拒否することをもって、連帯の可能性を源泉的に遮断するのだという意志だ。
しかし「わたしはあなたになることができない」という存在論が変革と連帯の可能性を否認するための絶対的根拠でなければならないのか。韓国社会の進歩的知識人たちは、すでに一九七〇~八〇年代、変革の次期に労働者になるために偽装就職を敢行したほどのドラマチックな存在変異を試みたことがある。にもかかわらず「男だからフェミニストになることができない」と断言し、「当事者性」だけを認識と運動の唯一な資源として固定しようとするのは何故か? 果たして本当に男は男であるのみであり、女は女であるのみであり、労働者は労働者であるのみであり、障害者は障害者であるのみであり、外国人は外国人であるのみであり、遺族は遺族であるのみなのか? わたしたちが絶えず民主主義を熱望したのは、まさにこのよう不変のアイデンティティ論に挑戦し、それを転覆するためではなかったのか。」オ・ヘジン『至極文学的な趣向』五月の春、二〇一九、五五七‐五六〇頁。
文献情報
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