韓国書籍紹介など

読書ノートなど。翻訳もこつこつ出版していきたい。

「フェミニズムは女性を被害者としてのみ捉えるという、まさにその考え方と闘ってきた」――クォンキム・ヒョンヨンのエッセイからの引用

日本語翻訳もいくつかあるキム・ウンシルが編んだ『コロナ時代のフェミニズム』(ヒューマニスト、2020)は、単著を持つ論者たちが、それぞれの議論をまとめた短いエッセイが並んでいる本であり、すぐ読める。もちろんそれぞれ単著を読むにこしたことはないが、韓国フェミニズムの見取り図を(根本的にではなく)ざっくりと見るためには役立つ本である。以下に引用するクォンキム・ヒョンヨンは『ハンギョレ』や『京郷新聞』でもばりばり書いているし、ベルフックスの『フェミニズムはみんなのもの』の韓国語版解題なども書いているので、韓国フェミニズム書籍に触れたことのある方は知っていると思う。単著としてはエッセイ集の『二度とそれ以前には戻らないだろう』(ヒューマニスト、2019)と論文集の『常にそうであったように道を探し出すだろう』(ヒューマニスト、2020)がある。また、責任編集した重要な論文集のうち、とりわけ根本的なものとして『トランス叢書3、被害と加害のフェミニズム』(教養人、2018)がある。トランス叢書については、別の媒体で簡単に紹介したことがある。以下の引用は、この議論を簡略化してエッセイ化したものといえるだろう。

 

 「男性であるがゆえにいつでも加害者でありうるという言葉は男性一般を攻撃する言葉ではなく、男性であるがゆえに仕方ないという弁明として、よりしばしば用いられる。
 同様に女性をすべて潜在的被害者であると考えるならば、潜在的に危険になりうる(主に外部的で異質的な)ものから保護しようという論理がフェミニズムの言語のように使用され、女性たちが互いに取り締まりをして被害者にならないことを奨励し、危険な女性と資格を備え持っていない女性を非難する文化が創出されもする。危険から安全である権利を主張する「潜在的」被害者主義は、危険地帯で生きていくしかなかったり、または時には危険を自ら甘受することをもって規範という名で行われる暴力に抵抗しようとする女性の生を他者化したり非可視化する。これはフェミニストであればその誰もが望まないであろう流れだろう。
 もう一度強調するが、フェミニズムは女性を被害者としてのみ捉えるという、まさにその考え方と闘ってきた。フェミニズムは被害者を同等な社会構成員として尊重しようとするものであって、被害者の言葉が無条件的に正しいとは言わない。「あなたが悪いのではない」という言葉は被害者を不当に非難することを塞ぐために必要なのであって、女性がいかなることも真に選択できないだとか矛盾と混乱を経験しつつ自分の生を作り出していく過程の中の主体だという点を否認しようとする言葉ではない。
 被害者を尊重するということは被害者を真空状態において保護するということではない。生きている人間として被害を経験し、時にはその経験に関する解釈を変化させながら成長していく女性を支持するという意味だ。ある経験は被害でもありえ、被害でありえないかもしれない、グレーゾーンに存在する。その経験はみな被害と加害の二分法で分類すべきでもなく、現実的に可能でもない。
 誰からも傷つけられず、誰へも迷惑をかけない無害な存在として生きることを目標にするなら、世の中はすべて危険なものでのみ満たされているという恐怖のみが増幅しつづける。恐怖が満ちた世界であらゆる潜在性を被害または加害へと置換してしまうのではなく、傷つけられてもそれで人生が終わりではなく、弱くて不足しておりちょっと異常で心地悪いとしても、それがまさに人間としての女性が生きるいくつかの姿のうちの一つだという事実を、より多くの人が知ることになること、これが「被害者フェミニズム」を越える次の段階になるのではないか。」(クォンキム・ヒョンヨン「女性は潜在的被害者なのか」『コロナ時代のフェミニズム』42-44頁)

 

李珍景『マルクス主義と近代性』第一章紹介

李珍景の著作で最も有名なものは、86年のデビュー作である『社会構成体論と社会科学方法論』、そして入獄後に哲学を学びなおして執筆した94年の『哲学と煙突掃除夫』として97年の『マルクス主義と近代性』であろう。このあたりは、00年代以前に韓国の大学で人文社会系の勉強に触れた人であれば、おそらく読んでいるし、勉強していない人でも書籍の名前くらいは知っているだろう。その後、李珍景は2002年の『ノマディズム』や、近年の「存在」をめぐる議論へと至っていく。この記事で紹介するのは、『マルクス主義と近代性』の第一章である。ここで言及されている「死への先駆」はハイデガー存在と時間』に出てくる文句であるが、この文句は2020年代の李珍景の哲学(「存在」をめぐる議論)においても依然として乗り越えるべき対象として扱われている。ただ、この言葉をめぐる李珍景の位置はかなり90年代の『マルクス主義と近代性』と2019年の『金時鐘、ずれの存在論』では異なっていると思われる。この本は、「ともに転覆を夢見て脱走した、決してその痕跡が消されることのない、ある時代の仲間たちへ」というアフォリズムが巻頭の空白頁に記されているのも印象的だ。また、第七章でローザ・ルクセンブルクの議論を自然生長性(自生性)ではなく自発性であると読み替えていく議論も登場する。ともあれ、以下は2014年の改訂版『マルクス主義と近代性‐主体生産の歴史理論のために』の18頁から33頁に至る第一章をここに翻訳紹介したい。


一章 マルクス主義の不可能性?
 
 ドイツが統一したとき、正確に言えば社会主義ドイツが崩壊したとき、わたしは「社会主義者」として起訴されて裁判中であり、ソ連が解体したとき、正確にいえば社会主義体制全体が崩壊したとき、わたしは「社会主義者」という理由で、清州刑務所で懲役暮らしをしていた。社会主義者が刑務所で立ち向かわねばならなかった社会主義の崩壊、それはそれ自体のみでも充分に戸惑いに満ちた逆説だった。文学的ですらある逆説。思惟が新しい脱走を試みるには決して狭くなかった、一坪半の空間を形成する四方の壁は、その日以降、一歩ずつ大またで近寄ってきて、新しい夢が育つには充分な高さだった天井は、あたかも棺桶の蓋にでもなったかのように、鋭くなった鼻の先まで、焦燥と落ちて来た。
 そうだ。それは嘲笑してせせら笑うソクラテス式の反語(irony)のように感じられる逆説(paradox)だった。それは一つの、誰がみても明らかな至極単純な逆説であったが、極度に強い当惑をともなう強烈な逆説だった。しかしその当惑の要因は決して単一ではなく、その点で、その強烈さはおそらく複数の逆説の凝縮に起因するものであったろう。それは少なくとも三つの相違した次元の逆説ないしジレンマを含んだものだった。

 一つ目の逆説。じっさい八〇年代の韓国における生に対して、ともに生きる人びとの生に対して、あるいは自らの生に対して真摯であった人のなかで、運動の場において自由であった人は、どれほどいるだろうか? それは、わたしの場合においても同様だった。他の多くの人びとのように、わたしもまたマルクス主義者だから革命を夢見たのではなく、社会主義者だから運動をしたわけでもなかった。むしろ反対だったと言うのが正確だ。逼迫した多くの人びとの生を、抑圧と暴力、強制と監視などによって荒廃化した生、日々繰り返す飽き飽きして苦痛をともなう労働の生、それがわたしたちをして変革を考えさせ、それに対する憤怒が革命を夢見させ、それをひっくり返さないといけないという熱情が、恐れと苦痛を堪えさせ、運動へと進ませた。命をかけて、である。そのように始まった変革と革命の夢、運動の熱情がわたしたちをして、社会主義へと、マルクス主義へと、あるいはレーニン主義へと押し進ませたのではなかったか?
 この場合「命をかける」という言葉は、隠喩ではなかったし、決して誇張でもなかった。どれほど多くの人が死んでいったのか? すぐ傍にいた同僚が、ともに討論した先輩が、顔を隠したままともに走り抜けた後輩が、あるいはその周辺で動き回っていた人々が。鞭打たれて死に、墜落して死に、催涙弾に撃たれて死に、拷問されて死に、軍隊に引っ張られていって死に、疑問死した。また自ら身体をなげうって死に、自ら焼身して死に、あるいは理由も残さないまま死に、死はつねにわたしの傍にあった。怯えて震えるわたしの背の後ろに、ぴたりと張り付いていた。そうでありながら、わたしたちは走り抜けた。その死を背に背負ったまま。止まろういう考えもあえてできないまま。誰かの言葉のように「生を投げやって」、あるいは「死へと先駆して」。ハイデガーは概念で思惟したが、わたしたちは身体で行った(かれらはその言葉が本当にどれほど胸を締め付ける惨たらしいものであることを知っていただろうか?)。
 運動と革命が生全体を賭けたものであるからには、マルクス主義社会主義が生自体を賭けた夢と希望であるからには、没落した社会主義の前で、解体されたマルクス主義の前で、「いまやそれは終わった」といって、それを容易く投げ捨てることができるか? 多様な理念のなかで、気に入った一つを選ぶのであったならば、複数の体制のなかで良さそうな一つを選択したのであったならば、それはむしろ容易かっただろう。しかしそれが生を賭けた真摯さであって、死を顧みない熱情であったならば、それを捨てることはいかに難しいことか。あるいはそれを捨てるということは、いかに虚無で虚脱なことなのか。――そしてこのような点において、容易く捨てて機敏に別の「対案」を探し出す鋭利な人に比べれば、腹の深くに虚無を感じ彷徨していた人びとは、むしろいかに理解しやすいものであったか。
 しかしそうだとしても、既存のマルクス主義社会主義固執し、それに安住することもまた不可能なことだった。生を賭けるということが、浪漫主義小説のなかの主人公のように新年に対する熱情的固執のみを意味するではないからだ。それは過去と未来とを無限に分割する現在のなかで、現在の問題として未来を提案するものであるからだ。
 ここでわたしたちは一つ目の逆説、いや、むしろジレンマにぶつかる。マルクス主義、それは生の真摯さを放棄しない限り、決して投げ捨てることのできない地盤であるが、同時にそうであるほどにそのまま安住することのできない地盤であるという逆説。座りこむことも立ち去ることもできないという、ジレンマ。
 しかし同時にそれは、わたしたちをして、新しい緊張と遭遇させる。決して投げ捨てることのできないその立地点の内において、新しいやり方によって質問を投げかけ、新しいやり方によって思惟することをもってのみ解決できる緊張と。であるならばむしろわたしたちは、その緊張を利用し、その緊張を通して行き止まりの壁を突き破っていかねばならず、その緊張の内でその地盤を転覆せねばならないのではないか? いまやわたしたちは、留まったまま去らねばならない。座ってする遊牧。既存のマルクス主義を裏返し、変異させることをもって、マルクス主義ないしマルクス的思惟を新しい方向へと進めること。

 二つ目の逆説。崩壊によって終わった社会主義の歴史、いや、より正確には資本主義へと回帰するものとして帰着した社会主義の歴史を理解できるマルクス主義者が存在しうるだろうか? 「国家資本主義」や「官僚社会主義」のように、非‐社会主義を意味する概念を引っ張ってくることなく、言い直すと社会主義社会主義として定義しながらも、その社会主義の崩壊と解体、資本主義的回帰を理解できるマルクス主義者が存在しうるか?
わたしの知る限り、それはほぼ不可能だ。なぜなら「勝利」を宣言した社会主義では、剰余価値と利潤に基礎をおく階級が消滅されているためであり、社会主義的生産関係の上で他人のために労働を遂行しうる共産主義的意識が形成されているためであり、あらゆる人民のためのあらゆる人民の国家が敵対なく社会を管理しているためであり、それゆえに社会主義はすでに後戻りするできない河を越えたためであり、「不回帰点」を通過したためだ。したがって、社会主義の崩壊とは、わたしのようなマルクス主義者としては受け入れることのできない事実であり、資本主義へと回帰する社会主義とは、わたしのようなマルクス主義者として納得できない歴史だった。
 マルクス主義唯物論を自負する限り、その歴史とはマルクス主義者が生産する思想と理論、理念と概念の歴史であるのみならず、一時的には運動と革命、社会主義の成立と「発展」、そして結局は崩壊へと帰着した社会主義の歴史でもある。しかしまさにその歴史を、自らの名で成した歴史を、社会と世界に対する歴史的分析と理解をもって自らを特徴づけており、それゆえときおり歴史理論と呼ばれたマルクス主義自身が、理解できなかったということだ。マルクス主義者としては理解できないマルクス主義の歴史、あるいはマルクス主義の歴史を理解できないマルクス主義者。これよりさらに根本的な逆説が、少なくともマルクス主義の内でありうるか?
 であるならば、マルクス主義の内には、自らの名で成された歴史を理解できない、なんらかの空白があるのではないか? あるいはそのような空白がどこにでもあるならば、いまわたしたちがあの逆説を通して向かい合うことになった空白は、自らの歴史を理解するための必須的ななんらかの根本的地点をあらわにしているものではないか? であるならば、いまやマルクス主義自体に対して、再び根本的に質問を投げかけ、そのなかの空白を新しい思惟が作動することができる空間へと変換させねばならないのではないか? これをもって既存のマルクス主義に不在していた外部の異質的な要素が流入し、既存の複数の線を交ざりながら新しい曲折と変形を作り出すフラクタルな線を生成し、それを通して既存の構図(plan)とは違っているが、とはいえ全く別のものでもない新しい構図を作りあげる生成の空間を創出せねばならないのではないか? このために、むしろマルクス主義の外部からマルクス主義を見て、マルクス主義が占めている位相に対して思惟し、その外部を通して、その異質性の地帯を通してマルクス主義自体を変異させることが必要なのではないか?

 三つ目の逆説は、解体された社会主義社会を通して、その亀裂の地点において現れたものとしての、「社会主義的人民なき社会主義社会」、あるいは「社会主義的主体なき社会主義社会」という現実的逆説だった。
 独房のなかで社会主義の崩壊とぶつからなければならなかった社会主義者が唯一できたことといえば、おそらく「いったい何が起こったのか?」という問いをもって新聞を読むことではなかったか? 少なくともわたしはそうだった。入手できるあらゆる新聞を万遍なくめくり、社会主義に関する記事であれば一つも逃すことなく、繰り返し読んだ。その中でひときわ目についたもの、それゆえ今でも記憶から消えないものがあった。ゴルバチョフの「クーデタ」が失敗し、ソ連が解体するなかで一五、六ほどのソ連の共和国では新しい大統領が就いたのだが、その一五、六人の大統領が、グルジア一か所を除き、すべて共産党幹部出身だった。しかしかれらが大統領になるやいなや執った最初の処置は共産党の不法化を宣言し、共産党の財産を没収することだった。共産党によって逼迫されたり共産党と縁のなかった人がとった行動であれば、それはとても自然なことだっただろうし、したがってとくに強烈な印象も残さなかっただろう。おそらくその反対に「こんなになるなんて共産党が人びとをどれほど苦しませたのか」という常識的通念が浮かべてしまったであろう。
 しかし昨日まで共産党幹部だった人が執った処置であったために、それは自然なことではなかった。それを読んでからぐるぐる頭に留まった質問はこれだった。――かれらにとって共産党は果たして何だったのか? いかにしてかれらは自身の生のうち、多くの部分を費やした自らの党を、いかに状況がこうなったといえども、一日で背を向け、もっとも最初に背信の刃を刺しこむことができたのか? それも一人二人ではなく、皆が一様に。だとすれば、かれらにとって共産党共産主義とは一体何だったのか? かれらはいったいどのように考え、どのように生きてきたのか?
 資本主義において(政治をする)人びとの姿を見てきたわたしたちとしては、それが社会主義で起こったことという点のみを抽象すれば、とても容易く理解できるだろう。かれらにとって共産党とは、自らが立身出世するために必要な組織であり、共産主義とはかれに必要な理念だったということだ。そしてそのおかげで共和国の大統領という地位にまで昇ることができたのだ。したがってそれが自らの出世と関係なかったり、甚だしくは妨害になるような状況において、かれらはいくらでもそれを不法化し、投げ捨てることができるのであり、財産を没収するにあたって、なんら憚ることがなかったのだろう。
 利害によって考えて行動し、その利害の中心には、いつでも自分がいて、利害の同質性によって区画される共同体の範囲は家族をこえることがなく、そのような利害のためならば自らに許容された権力と権利を最大限利用し、また与えられた仕事と連関して与えられた命令――それがなにであれ――に服従し、また命令に対する服従を当然視し、要求する人びと。かれらはそのような人びとだった。
 しかしより根本的なのは、権力の周辺を機転よくまわるかれらのみの問題ではないという点にあった。「文化的理由による亡命」といって「街路に寒風」を残してソ連へと去って行ったある先輩は、自らが体験したとても極限的な場面を伝えてくれた。かれは国営商店でものを買うために、ある商品の価格を聞いたが、目の前にいる店員はなにも答えなかったという。三回聞いても答えがないので、かれは抗議をし、その店員は「そこはわたしの担当区域ではない」という冷淡な一言で一蹴したという。すぐ横の陳列台だったのに……。どうしてその店員だけだろうか、どうして店員たちだけのことだろうか? このような姿の人民たちは、足早にソ連へいって取材をしていた西側の記者たちによって繰り返し報道されていた。似た時期に、中国では証券を買うために列に並んだが、割り込みをするといって横にいた「人民」をなぐり殺した「人民」がいた。どうしてソ連だけのことか?
 じっさいこれはわたしたちが目を左右に見渡せば、いつでも目にはいる人びとの姿であり、同時にわたしたち自らの姿でもある。それは、人びとの価値が貨幣へと還元され、人びとの活動が価値化される限りにおいてのみ労働と認定され、人びとの生が資本を増殖させる限りにおいてのみ持続できる世界である資本主義においてならば、いたるところで発見できる人びとの姿だ。それを、いつも口喧嘩をするホッブズ式の「人間」のようにオオカミのような姿で表現するのであれ、「見えない手」に左右されるスミス式の功利主義的経済人として表現するのであれ、官僚的な生き方に飼いならされ自らのために開かれた門さえも押しひらいて入る考えすらできないカフカ式の小市民によって表現するのであれ。
 これをわたしたちは大抵「近代人」と呼ぶ。支配者なき支配のために、明示的な支配がなくとも与えられた規範に自ら服従する近代的主体。それは、すでに自らの目に位置付いた監視の視線を通して自らを見、侵犯に対する恐れによってお互いのあいだに除去できない距離をつくり、それゆえ結局は手を差し出して向かい合いたい欲望が自ずから委縮し、限りなく孤独の空間のなかに自らを閉じ込める人びとの姿だ。
 その反面、マルクス主義者としてのわたしが知っている社会主義的人民ないし社会主義的主体は、そのようなものではなかった。いや、決してそのようなものであってはならなかった。それは能動的に自らの仕事を探し、ほかの人ないしは全体社会の利益のために積極的に活動し、家族を越えて全社会的な範囲でコミューン的関係を拡張していき、その関係の中で自らを生産し管理する新しい類型の主体でなければならなかった。共産主義的主体、いや少し緩和させて、社会主義的主体が。しかしそのような姿は、伝える記者たちのせいなのかもしれないが、ほとんど探し出すことができなかった。社会主義社会に社会主義的人民がなかったのだ。その反対に、むしろ資本主義で日常的に接することのできる近代人の姿がはるかに、そして劇的に誇張された様相で存在していたのだ。「近代的社会主義」――近代人たちによってぎっしり詰まった社会主義社会について、これと別の呼び方があるだろうか?
であるならば、社会主義が崩壊した理由は、むしろ「容易く」理解できるのではないか? 社会主義人民なき社会主義社会が崩壊したのは、ともすれば当然なことだからだ。同様に、全人民の国家が統治する社会主義社会に資本主義を凌駕する巨大な監視と統制組織が必要だった理由も「容易く」理解できるのではないか? 近代人とは位階化され分節された統制を通して活動するのであり、資本主義においてこれは多くの場合資本によって遂行されるが、資本が資本として存在しえないような、したがって資本が統制できない社会であれば、これを代替する別途の統制と監視組織が必要だろうからだ。また、社会主義社会が動揺して解体される状況、それゆえ議事堂に大砲を撃ち込む状況において、大衆たちが革命や暴動を起こすのではなく、極度の無関心と冷淡さによって対処したのも「容易く」理解できるのではないか? それは政治とは自らのことではなく、国家もまた自らの国家ではなく、体制の動揺や解体は自分たちのことではないからだ。
 ドゥルーズの言うように、良識(bon sens)が、多様な方向へと進みうる思惟の力を一つの方向――良い方向(bon sens)――へと定着、固定させようとするならば、逆説(paradox)はその反対に、一つへ定着した通念(doxa)に背き、多様な方向へと進んで行ける道を開く。同様にマルクス主義がぶつかったあの根本的な逆説は正統的(orthodox)マルクス主義が仮定している「正しい通念(ortho-doxa)」の一方性を壊し、マルクス主義の良識を解体する。
 この三つ目の逆説は、前の二つの逆説とともに、理論的で歴史的な問いを投げかけることをもって、問題全体を再び思惟させる理論的地帯を生成する。

1、理論的質問 知ってのとおり、マルクスによれば「人間は社会的関係の総体」であり、生産様式によって規定される。誰の定義に従うにしろ、近代の小市民的で利己的な人間は明らかに資本主義的生産関係によって規定され、その関係のなかで形成される。したがって生産様式が変われば、人間もまた変わらねばならない。しかし社会主義社会の大衆は資本主義において簡単に見かけることのできる、それよりもさらに極端な様相を取りもする近代人だった。生産関係は社会主義的なものに変わったが、人びとは社会主義的人民ないしは共産主義的主体になりはしなかった。しかし生産関係ないし生産様式が変わったにもかかわらず人びとはなぜ変わらなかったのか? そうであるならば、「人間は社会的関係の総体」だというマルクスの命題は間違いなのか? 「社会的存在が社会的意識を規定する」という歴史唯物論の基本命題は棄却されねばならないのか?
 ここで「それは真の社会主義ではなかった」という回答や、「不十分な社会主義」という言葉は、多くのマルクス主義者にとって大きな慰安になるだろうことは間違いない。しかし多くの慰安がそうであるように、それは巨大な歴史的「費用」と犠牲を払いながら現れた問題を回避し、顔を背けることだ。ここで必要なのは、慰安ではなく正面からぶつかろうとする勇気と果敢さだ。
 三つ目の逆説が見せてくれたのは、明らかに共産主義的主体ないし社会主義的人民とは、「社会的存在が社会的意識を規定する」という命題によって生産関係を変えれば自動的に人びとも変わるろいうものではないという事実だった。また人びとの意識を変えるために社会主義において多様な努力をしたことが事実とするとき、社会的意識を通してこの問題に接近しようとするのは、最初から望みがたいことだったように見える。そうであれば主体ないし「人民」の問題は、むしろ意識とは別の次元の問題ではないか? 意識ではない次元において、人びとの生を統制し規定する、あるいはそれを特定の形態へ規定する固有の領域があるのではないか? それゆえ人びとを特定の形態の主体ないし「人間」へと生産していく、強いて言うなら「主体生産様式」とでも呼べる理論的領域があるのではないか?
 結局社会主義的人民であれ、資本主義的人民であれ、「主体」の問題を掴まねばならない地帯は、意識や生産関係へと還元されない領域であると考えられるが、これをわたしたちはフロイトにしたがって「無意識」と呼ぶことができる。言いなおすと、社会的主体には生産関係へと還元されない要素があり、その要素が意識に比べればむしろ一次的で決定的であり、それはまさに無意識という結論に至らせるということだ。であるならば、これはマルクス主義者がマルクス主義の歴史を理解することができなかったという逆説に対して、納得することのできる一つの通路を提供する。すなわち既存のマルクス主義においては、主体ないし人民を無意識の次元で扱うことのできる概念がなかったのであり、無意識の形成と連関して主体と歴史の問題を扱うことのできる理論がなかったということだ。
 しかし無意識を通して生産され、それを通して特定の様相で活動し思考する主体が、歴史的に相違したことが明らかならば、封建的な主体と近代的な主体、そして共産主義的主体がきちんと区別されねばならないならば、つまり近代的主体とは異なる共産主義的主体の生産が思惟されねばならないならば、そのためには無意識を歴史的に可変的なものとして扱えなくてはならない。しかしフロイトは、そしてかれに従うアルチュセールは「無意識には歴史がない」と言ったのではなかったか? 主体を生産するやり方の転覆ないし変革とは無意識の変換を意味するが、歴史のない無意識に対して、そのような転覆や歴史的変換が可能であるのだろうか? また他方で、そのような主体や無意識概念は、どのようにしてであれ生産関係や社会的関係の効果の下にあるのであり、したがって社会的性格を持つものとして定義されなければならない。しかしフロイトは、そしてかれにしたがうラカンは、それを性的なこと、家族的なこと、オイディプス的なことだと定義したのではなかったか? そうだとすれば無意識を社会的な次元で扱うことは可能なのだろうか?
 ここでわたしたちはフロイト的無意識概念が、このように歴史的で社会的な次元において無意識の歴史的可変性を、主体生産様式の歴史理論を扱うにさいして、かなり不適切だという結論に至る。フロイト的な無意識概念は、どのような場合であれ無意識を、したがて無意識次元において定義される主体を歴史的でも、社会的でも、可変的でもないものとして定義するからだ。むしろ無意識を「習俗の道徳」を通して形成される身体的無意識として定義するニーチェが、はるかに適切に見えるのは、まさにこのような脈絡においてだ。なぜなら習俗ないし習俗の道徳とは、社会的なものであり、あるいは歴史的なものであり、したがって可変的なものであるからだ。フロイトラカン、あるいはアルチュセールよりも、むしろニーチェドゥルーズガタリフーコーに、わたしたちがもっと近接し、かれらの概念と歴史的研究にもっと頻繁に依存しているのは、このような理由によるのだ。
 いま、歴史唯物論に関するマルクスの命題は棄却されておらず、ただその概念的境界線を異にすることになる。「人間は社会的関係の総体」という命題は、むしろ無意識の次元へまで拡張され、根本化されねばならず、これをもって社会的関係の総体としての「人間」ないし「主体」に対する固有な歴史理論が成立されねばならないからだ。「社会的意識は社会的存在によって規定される」という命題は、崩壊した社会主義の歴史を通して提起された問題を解決することはできないのであるが、なぜならその問題が「社会的意識」ではない「社会的無意識」次元にあったからだ。したがって、それとは別の次元で「社会的無意識は社会的関係によって規定される」という命題が提起されねばならない。もちろんこの場合、社会的関係は生産様式と関係ないわけではないが、決してそれに還元されもしない主体生産様式と連関したものだ。

2、歴史的質問 教科書的な書籍の夢のような主張を隅に片付けたとしても、社会主義社会がコミューン的な社会と共産主義的関係を明示的に志向したという点は明らかだ。同様にそれは、共産主義的主体を社会主義人民のモデルとしていることも明らかだ。そしてそのために社会主義的所有制度はもちろん、理念やイデオロギー、教育、文化政策、さらには恐怖政治的な国家政治まで動員されたことをわたしたちは知っている。にもかかわらず、なぜその志向点とは反対に、むしろ資本主義により相応するように見える近代的主体、近代人たちが大々的に生産されたのか? なんらかの歴史的条件が近代的な歴史性と分離しえない無意識的主体を生産し再生産したのだろうか? これはわたしたちをして、資本主義へと、あるいは近代と呼ばれる時代へとさかのぼっていく系譜学的問いを避けえなくする。無意識次元における主体が、生産関係の変化にしたがって自動的に変わり生産されるものでないならば、つまり近代的主体の生産を資本主義的生産様式の成立へと還元することができないならば、いったい近代的主体、近代人はいついかにして誕生したのか? そして近代的主体としてのわたしたちは、いったいいかに判断し、いかに行動するのか? その判断と行動のなんらかの反復的様相を、いかにして掴むことができるだろうか?――これは新しいコミューン的社会に適切なる新しい主体の生産を思惟するために、とても緊要な問いだ。
 先ほどの二つ目の逆説が、狭い意味における「マルクス主義と近代性」という主題を定立させるならば、ここでこの問いは、いや理論的で歴史的な二つの問いは、一方では「社会主義と近代性」という主題を、他方では「資本主義と近代性」という主題を定立させる。わたしたちは後に、二つの主題を通して主体生産様式の歴史理論のための諸要素を探し出そうとするだろうし、それを通して近代的な主体生産様式から脱走し、それを転覆させうる地点を探し出そうとするだろう。マルクスのいうとおり、革命が広範囲な人間の変革を必要とするというとき、そしてそれが無意識の次元において、その「人間」の問題を思惟することができたならば、それは明らかに主体生産様式の変革を意味するものであっただろう。
 結局、生産様式の変革へと還元されない主体生産様式の変革は、一時にすべてのことを終結させる「巨大な否定」というよりも、むしろ自身の習俗と身体の隅々にいたる緻密で繊細な生の領域において固まった分節の線を変える際限なき変異であろうし、あらゆる場で絶えず新しい生き方(Lebensweise)を創造する「楽しき肯定」であろう。もちろん主体生産様式の変換という問題設定が、生産様式の転覆と変換という歴史唯物論の基本的な問題設定と対立したり、それを無効化したりすることはない。その反対に、生産様式の転覆としての「革命」は新しい生き方、新しい主体生産様式の大々的な変異と実験を可能にする条件を形成し、あるいは主体生産様式の変革は、そのような「革命」があらゆる領域で根本的で全面的に進行されるための条件を形成する。そのような点において革命は二重的であり、その対象は重層的だ。
 しかし時が過ぎるにつれ革命は体制化し、生の多様な領域には「自由な諸個人の自発的連合」を通して遂行された実験と変異は中断されたのであり、大衆諸組織は体制化した生き方、体制化した権力を伝達する伝達ベルトとなった。それは命令し統制する権力に飼いならされた近代人たちを再生産して作動する。しかしみずから近代人である生産様式を抜け出ようとした体制ならば、いたるところで自身が生産する近代人たちと音なき戦闘を繰り広げなければならず、このために巨大な監視と統制装置を発展させることになる。しかしいたるところでその巨大な装置を取り囲んでいるあの近代的なゲリラたちとの無意識的戦闘は、生の根本的変異と転覆を中断させることをもって自ら招いた対価なのかもしれない。
 
 ここでわたしたちは「マルクス主義と近代性」という主題へ再び入っていくことができる。それは直接的には支配的な形態のマルクス主義がもつ近代的性格、あるいはマルクス自身のマルクス主義すら決して自由ではなかった近代的限界についてのことであり、支配的な形態のマルクス主義哲学および政治経済学が基盤にしている近代的地盤についてのことである。いまやそれは近代性の問題を、言い直せば近代的生き方ないし近代的主体生産様式の問題を歴史と革命の問題として思惟することができなかった内的な限界と空白に関するものだ。結局近代性という主題を通してマルクス主義を思惟しなおすということは、マルクス主義自身の歴史すら理解できなくさせたその空白を、このように近代的な生き方、近代的な主体の問題を通して新しい思惟の空間へと変換させる問題であり、これをもってマルクス主義の地盤を変化させる問題だ。
 これをもってわたしたちは安住することはできず、立ち去ることもできなかった一つ目の逆説へとさかのぼっていくことになる。いまや生に対する真摯さは、近代的な生自体の変異と転覆を試みる、さらに近代的な地層へまで、もっと推し進めていかなくてはならず、これをもって安住できない地盤自体を、その下から変換させねばならない。それは支配的な形態のマルクス主義が様式と正統(正しさ‐通念)の名で装着した境界を超えて横切りながら、新しい革命の地図を描くことだ。いまやわたしたちは、留まったまま立ち去ることができる。いや、さらに深い深淵のなかへと沈んでいくことをもって、さらに遠く去ることができる。座りながら遊牧することを。
 これをもって生に対する真摯さが推し進めるマルクス的思惟の大地は、変換される境界にしたがって脱領土化され、再領土化され、また再び脱領土化しはじめる、絶えない変異の運動の場になるだろう。であるならば、そこでわたしたちは、いつでも相違した形態の理論を作り出し、いつでも相違した様相によって概念を作動させる生の反復を見ることができるだろう。差異化する反復、あるいは差異の反復。――マルクス主義が反復し存在することができるならば、いや、正確に表現するなら、マルクス主義が反復して生成されうるならば、つまりそれがニーチェのいうとおりに「永遠回帰」されうるなら、それはおそらく反復の内において生成されるその差異を通してであろう。

オ・ヘジン『至極文学的な趣向』から「当事者」と「嫌悪」についての議論

韓国書籍の引用紹介です。600頁近い論考集の大著ですが、日本で最近紹介されている韓国文学諸作品についての批判的議論もたくさんあり、さらには索引もあるので(ありがたい!)、2010年代以降の韓国文化・文学を批判的に考えるさいに繰り返し参照されるべき本の一冊です。この本の別の議論もいずれ紹介したいと思います。

 

 「対象と主体のあいだの「距離の感覚」が、哀悼はもちろん嫌悪においてもかなり効果的なアリバイとして作動するということは、何を意味するか。これについて文化研究者のソン・ヒジョンは興味深い仮説を提出する。ソンによれば、セウォル号の惨事は「正確に「わたしの惨事」であった。誰にでも起こりうるという意味で「わたしの惨事」であっただけでなく、わたしたちみながセウォル号という人災の共謀者という意味」(「嫌悪と「目をそらす体系」を越えて」『人権の山』480号、2016年4月8日)においてそうなのだ。要するに、ひとびとがセウォル号の惨事について「疲労感」を感じたのは、しばしば言われるように「他人事に共感して悲しむことに疲れたからではなく、それがまさに「自分事」であるから」なのだ。しかしこのように「他人事」ではなく「自分事」だから目をそらすという、この逆説的な診断が事実ならば、わたしたちは依然として「当事者性」あるいは「近親性」が何らかの行為を遂行するさいに強力な認識の基準であるとともに主体化の条件として作動していることを知ることができる。つまりソン・ヒジョンが「目をそらす体系」の議論を通して看破した重要な事実は、対象と自分が連累した程度を絶えず測ることが、究極的には緻密な嫌悪の体制をつくることに服務するのだという点だ。
 さらに対象とわたしの距離に対する計量は、嫌悪の体系をつくるさいにも作用するが、嫌悪の体系から自分の「連累‐していること」を「漂白」するさいにも有用に使われる。例えば「「セウォル号の練り物」〔死体を揶揄する言葉〕のようなヘイトスピーチを遂行する「彼ら」は「わたし」ではない」という認識、これはソン・ヒジョンの指摘通りに、二度の認識論的否定を経由する。「わたしは嫌悪勢力ではない」と「わたしは嫌悪勢力の嫌悪対象ではない」。つまり嫌悪を「他人事」として考える時、わたしたちは安全な位置から嫌悪を嫌悪することができる。そうすることをもって、あらゆる悪の震源地として「イルベ」〔嫌悪発言が集まる韓国サイト〕が簡単に指名されるであろうし、「イルベ」だけを一網打尽にすれば、わたしたちみなは平和になるという結論に至ることになる。
 だが「わたしは嫌悪勢力ではない」という主体の安定的なファンタジーが挑戦を受けるならば、つまり「嫌悪の主体は外ならぬお前こそだ」という命題と対面することになればどんなことが起こるか。「お前もまた嫌悪に共謀することをもってこの嫌悪の体系を支えてきた」と非難されるならば?
 驚くべきことに、この時作動する主体化方式もまた「距離を置くこと」の操縦術を経由する。言うまでもなく、わたしはいま二〇一六年五月一七日早朝に発生した「江南駅女性嫌悪殺人事件」について一部男性たちが示した自己弁明のうちの一つである「わたしを「潜在的加害者」扱いしないでくれ」というスローガンを思い浮かべて本稿を書いている。女性嫌悪に対する家父長的主体の無批判と無自覚、希薄なジェンダー感受性が現在まで女性嫌悪を支えてきた原因であると突きつけられるや、直ちに提出された男性たちの戦略は、かなり矛盾したものだった。その戦略は「女性嫌悪が蔓延したこの社会で女性はみな潜在的被害者だ」という被害者の言語を借りて、被害者を加害者であると包み隠して、むしろ被害者を嫌悪する論理を取っている。「嫌悪の体系に服務しているのはわたしではない」と、自分の無垢さを主張するために、被害者の言語を逆用する、この逆説。
 もちろん、「わたしはあなたになることができない」、「あなたの苦痛はただあなただけが真に体験することができる」という命題は、苦痛の真正性に対する思慮深さとして理解されもする。つまり「わたしはあなたではない」という命題は、他のいかなるものにも還元されえない苦痛の個別性と特殊性に対する最小限の尊重として読むこともできる。しかしその反対の場合も可能だ。「わたしはあなたではない」という命題は直ちに「あなた」と苦痛を共にすることを拒否する自己防御と自己保存の修辞学としてもしばしば使用される。そしてこれは他人の苦痛を共にし、その責任を負うことを拒否するのだという政治的ジェスチャーとも相通じる。例えば「わたしは男だからよくわからないが」あるいは「わたしは男だからフェミニストになれない」のような発言。この発言が慎重に暗示するのは、事態を「わたしの問題」として認識することを拒否することをもって、連帯の可能性を源泉的に遮断するのだという意志だ。
しかし「わたしはあなたになることができない」という存在論が変革と連帯の可能性を否認するための絶対的根拠でなければならないのか。韓国社会の進歩的知識人たちは、すでに一九七〇~八〇年代、変革の次期に労働者になるために偽装就職を敢行したほどのドラマチックな存在変異を試みたことがある。にもかかわらず「男だからフェミニストになることができない」と断言し、「当事者性」だけを認識と運動の唯一な資源として固定しようとするのは何故か? 果たして本当に男は男であるのみであり、女は女であるのみであり、労働者は労働者であるのみであり、障害者は障害者であるのみであり、外国人は外国人であるのみであり、遺族は遺族であるのみなのか? わたしたちが絶えず民主主義を熱望したのは、まさにこのよう不変のアイデンティティ論に挑戦し、それを転覆するためではなかったのか。」オ・ヘジン『至極文学的な趣向』五月の春、二〇一九、五五七‐五六〇頁。
文献情報
https://www.aladin.co.kr/shop/wproduct.aspx?ItemId=189958722

 

李珍景『マルクスはかく語りき』の一部分

この本は李珍景が霊媒になってマルクスが対話しているという形式(!)の本ですが、ちょっと引用紹介してみます。今後、韓国書籍の引用紹介的なことをちょくちょく挙げていこうと考えています。

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マルクス「曖昧とした考えだけど、最近わたしがいるところに上がってきた方たちの話を聞きながら確信しました。その中の一人が、日本の三里塚というところで生きていた若い友人なのですが、成田空港建設のせいで暮らしていた地から追い出され、保証金を拒否し、10年にわたって熾烈に闘ったといいます。結局は力によって闘いぬくことができなくなり、首をつって自殺したといいます。また別の一人は、韓国の労働者ですが、暮らしていた地に高圧送電塔を建てるといって押し入ってきた人々に抗議して焼身したといいます。」

 

李「ああ、新聞で読んだことがありますよ、そのおじいさんの話を。日本の友人の話は『ぼくの村の話』という漫画で見たことがあります。」

 

マルクス「エンクロージャーの時期のイギリスにおいても、土地を奪われて地主のヤクザたちが家に火をつけるや、そのままそこで燃え死ぬことを選択した老人たちもいました。命さえも投げ出すこのような行動の底には、引っ越しのするための保証金で充分な都市人たちとしては決して理解できないような生が、「自然」との関係が前提になっているんです。」

 

李「であるならば、社会革命とはたんに生産関係を変えて生産力発展を目指すのではなく、生産関係とともに生産力と呼ばれる自然と人間のあいだの関係を変えることだと言わねばならないでしょうか?」

 

マルクス「もちろんです。生産様式の変革とは生産関係のみならず、言葉そのままの生産の様式を変えることであり、生産力と命名された関係を変えることでなければなりません。自然をたんに開発と征服の対象として設定する関係、開発のための費用や、さらには毀損された環境を復旧する費用によって自然の「価値」を測る関係を変えなければならないのです。」

 

李「あっ、それは労働のみが価値を生産するという労働価値論とはとても違った話ですね。ついにあなたまでも労働価値論を放棄されるということですか?」

 

マルクス「ハハハ、そうなりますか?労働価値論を認めることがマルクス主義かどうかをわけることと同一視していた時期があったでしょう。それは労働価値論批判を通してマルクス主義を批判しようとしたブルジョワ経済学者たちのおかげだと言わねばなりません。労働価値論をもっとも強く主張したのは、わたしではなくリカードでしたね。スミスは労働を唯一の価値尺度として提示し、リカードはそれを労働のみが価値を生産するという考え方へと押し進めました。労働価値論がマルクス主義と同一視されうるならば、リカードリカード主義者たちが、より忠実なマルクス主義者であると言わねばなりませんね。『資本論』1巻を丁寧に読むならば、わたしが労働価値論を論理的に「完成」させると同時に、それの二律背反をあらわにし「批判」していることを理解できるでしょう。あるいは『資本論』3巻で差額地代に対して書いている部分を読まれれば、労働のみではなく、土地、そして別の「有用性」を産出してくれる自然が価値を生産するということを理解できるでしょう。」(李珍景『マルクスはかく語りき』クリエ、2015、228-230頁)

書誌情報は以下。https://www.aladin.co.kr/shop/wproduct.aspx?ItemId=53645159

【新刊の紹介】『マルクスはかく語りき』

【新刊書籍の紹介】


李珍景『マルクスはかく語りき』、クリエ、2015、364頁、18000ウォン。

http://book.daum.net/detail/book.do?bookid=BOK00024685367YE

霊媒」になった李珍景がマルクスと対談している本。読んでみて、また詳しく書いてみたいと思います。とりあえず目次のみ紹介します。


もくじ
序文
1、コミューン主義と移行
2、歴史と革命
3、大衆とリーダーシップ
4、哲学と芸術
5、生産と生命
6、労働と階級
7、現代資本主義
8、国家と政治

急に訳したもので、誤訳可能性あります。速報形式で「済州道民日報」のウェブサイトに報道された記事の文字部分のみを翻訳します。写真はリンクを参照してください(写真多数)。このカッコ〔〕内は、訳者。
http://www.jejudomin.co.kr/news/articleView.html?idxno=58333

2015年1月31日15時32分に入力された記事です。以下翻訳。



<4報>カンジョン村、軍官舎建設のための代執行 負傷者続出 人権委員会、落胆の声




用役〔雇われて暴力的に運動をつぶす人々〕の強制撤去強行に人権委員会関係者「やめろ、時間をもって待ってくれ」


1月31日午後3時現在、負傷者6名病院移送、やぐら中心に対置8時間目


済州島西帰浦市のカンジョン海軍基地の軍官舎建設のための行政代執行が物理的な衝突を引き起こしている。2時間あまりの小康状態をみせた軍当局は、ふたたび座り込み現場の強制撤去を試みている。


海軍の要請によって陸地〔韓国の朝鮮半島部分、つまり非済州島〕から来た用役100名あまりは、31日午後1時10分ごろ、軍官舎建設現場の前をふさいでいる座り込みテントとやぐらを撤去するために作業を開始した。


用役たちは3人1組になり、座り込みテントを取り囲んでいるカンジョンの住民や活動家の手足をつかんで現場の外へ引き出している。


何名かの住民は外へ引きずりだされるや一瞬抵抗の声がより強まった。100名あまりの住民と活動家たちは、おたがいにスクラムを組み、人間の帯〔人間の鎖?密集?〕をなし、「海軍基地 決死反対」と叫んだ。


住民と活動家たちが用役たちの活動をやめさせるために一方向へ押し寄せた隙をついて、別の用役たちは木材と鉄条網を片付けはじめた。


これを防ぐための体のぶつかりと衝突が起こり、鋭い鉄条網などによって負傷者たちが続出した。


用役の足に踏まれた手をふまれた40台の男性が苦痛を訴えたりもし、ビラを利用して鉄条網撤去作業をしていたある用役男性は、これを防ごうとしたヤンユンモ映画評論家を捕まえ、地面に投げつけもした。


倒れたヤン評論家は平和活動家たちを大きな声で呼び、「用役が暴力を誘導しているが揺らがされてはならない」といい「平和的方法に村を守ろう」と訴えた。


人権侵害を把握するためにカンジョン村を訪れた国家人権委員会は、この状況を見て、「やめろ、時間をもって待ってくれ」と用役を制止したりもした。


午後3時までカンジョン海軍官舎行政代執行現場では、病院に移送された負傷者はあわせて6名だ。このうち住民と活動家が3名、用役が3名であると知らされた。


また、住民と活動家など2名が行政代執行の過程で、西帰浦警察署に連行されたことも確認された。


軍当局は、現在1000余名の人員を動員して、チョギョンチョル村会長など5名が上ったやぐらと、ムンジョンヒョン神父などが座り込んでいる点とに侵入するための空間を確保している。


記事は続きます〔原文ママ〕。

【運動の記事紹介】全国障害者差別撤廃連合、朴敬石代表、罰金弾圧に糾弾し自ら労役収監へ

韓国の障害者運動と具体的に連帯している重要なネットメディアである「be minor」の記事を紹介する。なお、当該の朴氏は、日本語では『インパクション』185号(2012年)に記事を寄稿しており、そちらも参照されたい。

本文および写真は、以下の原文を参照してほしい。

http://beminor.com/news/view.html?section=1&category=3&no=6651
“구속수감에 더 큰 연대와 투쟁으로 답할 것” - 비마이너-


「拘束収監に対して、より大きな連帯と闘争で応える」


全国障害者差別撤廃連合、朴敬石代表、罰金弾圧に糾弾し自ら労役収監へ


90名に対し6845万ウォンの罰金「集会の自由侵害」

全国障害者差別撤廃連帯の朴敬石常任共同代表が、警察の障害者運動に対する罰金弾圧に抗議し、29日夜8時40分、ソウル拘置所へ自らおもむき収監された。朴常任共同代表は、現在200万ウォンの罰金のために手配中の状態だった。

警察はさる2012年10月26日、介助者が不在のなか発生した火災によって死亡した故金ジュヨン活動家の葬式の途中、光化門一帯で行った路上の祭祀が不法だとして、障害者活動家18名に対し罰金を求刑した。

全国障害者差別撤廃連帯は、このような罰金刑が障害者運動に対する弾圧であるとして、強く反発し、これに朴常任共同代表が、みずから監獄行を選んだということだ。朴常任共同代表は29日から罰金200万ウォンに該当するあわせて40日の労役(一日5万ウォン)を支払わなければならない。

朴常任共同代表の自主的な収監にさきだって、全国障害者差別撤廃連帯は、29日午後3時、ソウル地方検察庁前で障害者運動に対する罰金弾圧を糾弾する記者会見を開いた。

この日、記者会見の参加者たちは、とりわけここ最近、前テヂュグループの許ヂェホ会長が、一日当たり5億ウォンの「皇帝労役」をもって5日間で24億ウォンの罰金を支払ったことにされ、社会的指弾を受けている事実を指摘し、司法部の不公平さを叱咤した。

人権団体連席会の公権力監視対応チームのランヒ活動家は「大部分の刑事事件が懲役刑の過酷さを避けるために罰金刑を下すのが慣例であるが、さいきん司法部は罰金を支払うことがそれほど大変ではない金持ちに免罪符を与えるために罰金刑を下している」と指摘し、「このような罰金刑すらも大企業の会長には一日当たり5億ウォンで計算してやり、別の誰かには5万ウォンしか計算してくれないというのは司法部の正義なのか」と声を高めた。

また「障害者活動家たちに降りかかってきた罰金が、ほとんど一般道路交通妨害罪だということは、基本権である集会の自由をあまりにも簡単に締め付けるもの」と指摘し、「憲法が保障した基本権を行使しているなかで交通妨害をしたことと、大企業会長の脱税と横領のどちらがより重い罪なのか」と批判した。

現在、障害者運動の活動家たちに対しては、2010年の玄ビョンチョル人権委員長辞退要求篭城(17名510万ウォン)、2010年の障害等級制廃止要求のための障害者等級審査センター篭城(罰金14名890万ウォン、損害賠償請求22名2200万ウォン)、2012年の故金ジュヨン活動家路上祭祀(18名1535万ウォン)、2012年の身体介護24時間要求国会政論館篭城(4名、350万ウォン)、など、あわせて90名に対して6845万ウォンの罰金が宣告されている状況である。

ノドゥル障害者夜学の金ミョンハク活動家は、これに対し「この罰金がわたしたちの大事な権利を塞ぐことは決してない」と言い「どれほど多くの罰金が降りかかってきても、わたしたちの闘争は変わらないだろう。より大きな連帯と闘争で応えるだろう」と強調した。

収監に先立ち、発言をした朴常任共同代表は「障害のせいで差別されることない世の中を守るのが法だと考えている」と言い、「しかしそのような法を守るために、障害者と貧しい人々の権利を守るために、努力するわたしたちに対して、いまだに国家は一車線はみ出したと言って罰金をもって治めようとする」と糾弾した。

朴常任共同代表はまた「40日間、しっかり休んで出てくる」と言い、「罰金のせいでわたしたちの闘争がへし折られてはならない。障害等級制と扶養義務制を廃止
するという闘争の最後まで共に闘おう」と訴えた。

記者会見を終えた直後、朴常任共同代表は、ソウル中央地方検察庁へと入り、収監の順序にそって、午後8時ごろ、ウィワン市に位置するソウル拘置所へと移された。

全国障害者差別撤廃連帯の李ユンギョン活動家は「朴敬石代表の今回の自主的な労役闘争は、たんに朴代表個人の罰金をこなすためのものというよりは、障害者運動をはじめとする社会運動に対する罰金および損害賠償弾圧の不当さを知らしめるためのもの」だと言い、「集会やデモの自由に対する悪質な罰金弾圧は直ちに中断されねばならない」と強調した。

現在、障害者差別撤廃連帯は、罰金を減らすための、社会的連帯を要請している。罰金後援講座は、477402-01-195204 (国民銀行, 朴敬石(障害者差別撤廃連帯罰金))だ。